映画旅行家nomadicのブログ

映画を観ながら、旅するように暮らしたい。鑑賞後に作品を語り合いましょう

期待を裏切り、肩すかしさせる映像体験の砲弾の嵐。あえて観せない、撮らないノーラン監督の戦術の勝利『ダンケルク』(2017)

ダンケルク』(2017、英・蘭・仏米)
 
この作品を観た人は、クリストファー・ノーラン監督ファンか、戦争映画好きの方でしょう。 

ご覧になって、いかがでしたか?
この作品は賛否が分かれるようです。
 
ドキュメンタリーのようで、盛り上がりに欠けている。
時間軸が混乱して、よく分からなかった。
などなど。

たしかに、その通りでしたね。私もそう思いました。 

意表を突かれたのは、ラストの戦闘機の燃料切れでした。
海岸に到着して、これから本番じゃないの?、と思ったところで、あっけなく燃料が切れて、不時着し、しかも、抵抗もせず、捕虜になり、映画は終わります。

盛り上がりに欠けていますね。

しかし、このラストシーンこそ、この作品を象徴しており、ある意味、「クライマックス」なのだ、と私は思いました。

なぜ、そう思ったのか?

この映画は、全編、肩すかしされている感じなんですよね。
おっ、盛り上がるかな?と期待したら、そうならないシーンばかり。

たとえば、

前半、海に墜落した、隊長の戦闘機を発見しても、隊員たちは見下ろして、前に進む、「さあ、行くぞ」と。

船の中で、階段から転倒して負傷した友人が息を引き取っても、突き落とした張本人である、救助された軍人に、船長の息子はこう伝えるだけ、「大丈夫だ」。

挙げたら、きりがありません。全編こんな感じです。
これが「ドキュメンタリーっぽい」と印象を与えるのですが、実は「逆なのではないか」と、疑ぐり深い私は、考えました。

つまり、淡々と事実を伝えているのではなく、あえて、意図的に、「感情的な展開」を排除した表現なのではないか?
実は、実際の戦場はもっと感情的で、それこそが事実、リアルなのかもしれない?

さきほど挙げた、シーンなら、

「隊長がやられた、畜生、あいつら」と隊員らが叫ぶ。

「死んじまったぞ、お前が殺したんだ」と軍人に詰め寄る。

戦場における感情的な展開といえば、愛国的感情、敵への怒り、憎悪ですね。
あるいは、反戦的な表現も考えられます、戦争そものもを呪う、など。

ほかの戦争映画には、そんな情緒的なシーンがたくさん出てきます。
でも、この「ダンケルク」には、出てこない。
展開が、そうならず、肩透かしされ、盛り上がらない。

私が、ラストシーンを「クライマックス」だ、と感じた理由を、少し説明します。

海岸に着いた途端、燃料切れ、不時着するも、捕虜になる。

これは、この映画が「撤退」をテーマにしたことを、強く喚起します。
撤退する船を、敵の戦闘機から守る、擁護するのが目的で、海が戦場であり、到着した海岸、陸地ではなかった。
当たり前ですが、あらめて気づかされます。

戦い抜き、立派に役割を果たしたパイロットが、陸地で抵抗することに意味はない訳です。
これも当たり前ですが、「撤退と投降」をラストに強く印象づけている、と私は思います。

感情的なシーンを排除して、残される、あぶり出される展開には、一貫したテーマを表現しているのではないか?と。

敵を攻め、あるいは守る、本番の戦場ではなく、この撤退戦において描かれるのは、生き延びることが最も重要であり、生き延びた者と死んでいく者だけである、と。

このテーマを、わかりやすく表現する人物を最後に登場させていますね。

撤退した兵士が罵詈雑言を覚悟して、帰国するとき、前の戦争を生き延びた負傷兵、と思われる盲目の支援者が、暖かく迎えるシーンが、それです。

ここでも反戦的には感じませんね。
生き延びることの勝利を祝うですから。

自分だけ生き延びてしまったことを感情的に悔いたり、責めたりするシーンは出てきません。

私は、実際の戦場は、もっと感情的なのではないか?、と思うので、この作品は、ドキュメンタリーではなく、かなり作為的に巧みに表現した「戦争映画」だと、驚きながら、感銘を受けました。
さすが、ノーラン、一筋縄ではいかない映画監督だな、と。

戦争映画だと、近年、巨匠クリント・イーストウッドが「父親たちの星条旗」「硫黄島の戦闘」を撮影し、強いテーマを持つ作品でした。

ノーラン監督は、戦争映画の新たなテーマを表現した、と思います。

戦争、兵器に詳しい方は、ほかにも見所は、たくさんあるのでしょう。
これは、私のただの感想に過ぎません。

あなたは、この作品のどんなところに注目されましたか? 

また、別の映画を観た後にでも、ぜひ、訪ねて来てください。

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